ムーブメントを語れれば、時計の「ツー」だ(1)【連載】

第11回:

毎年、統計上に出てくる時計の数は10億個とも言われていますが定かではありません。このような推計値が出てくるのは、時計の中身であるムーブメントの生産量が集計しやすいからです。現在、スイス、日本、中国が主な三大産地となっています。多少乱暴な区分けですが、高級帯のスイス、中級帯の日本、廉価帯の中国という違いがあります。では、なぜ、これらの国々なのでしょうか。3つのキーワードがあります。

 

2014年 ウオッチおよびクロックの世界生産(推定値) | 統計データ | 日本時計協会 (JCWA)

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Global Luxury Watch and UK Watch Repair Market | Great British Watch Company

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www.businessinsider.com.au

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Global consumer interest in luxury watches grew 5.7% worldwide in 2013

 

 

 

序文

時計と時間についてのお話:連載にあたっての序文 - 夜明け前の…

第1回

腕時計は、「やっぱりスイス」なのか【連載】 - 夜明け前の…

(略)

第9回

時計はメンテナンスによって、何年でも使える【連載】 - 夜明け前の…

第10回

耐震、防水、耐磁【連載】 - 夜明け前の…

 

 

まず、《技術継承》です。時計とは精密機器であり、職人的なノウハウを要し、長らく大量生産は容易ではありませんでした。よって、人材や技術が一度集積すると、他には移りづらい傾向があります。高地における冬場の内職として始まったスイスの時計作りは、一度も途切れることなく、機械式時計にこだわって世界最高峰の域に昇り詰めました。次に、《機械加工》です。歴史的に、これに長けた国が時計製造には有利でした。最初にそれが始まったドイツと同様、中世の日本にもその基礎がありました。その証拠に、16世紀半ば、日本の鍛冶屋はすでにヨーロッパ伝来の鉄砲をわずか数年で模造してしまうほどの技術力でした。近代になって、金属材料の扱いを得意とする日本の時計作りは開花し、機械式・クォーツ式の双方で成功しました。そして最後に、《廉価量産》です。安価で勤勉な労働力を大量に有していた中国は有利でした。あらゆる製造品目がこれにあてはまりますが、中国が今日「世界の工場」と呼ばれるのは、その所以です。特に、汎用的な量産設備があればできるプラスチック製のクォーツ式ムーブメントで急成長し、ついには世界最大の時計生産国になりました。こうして3つのキーワードのもと、スイス、日本、中国のそれぞれが台頭し、三国志のような構図ができあがったのです。

 

 

日立金属>たたらの話>鉄の使用の始まり

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 古代日本にて、鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。

 この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

 今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

 

 

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1 | しばやんの日々

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 鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶応11年(1601)に書いた「鐡炮記」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。上の画像は種子島にある時尭の銅像である。

 種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。そこで、翌年来航した外国人から八板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。

 

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また、ムーブメントを製造する企業の数も限られます。完成時計のメーカーが世界には何千社とあるのに対して、ムーブメントのメーカーは世界中を見渡しても、五十社もいません。それだけ製造が難しいのです。たとえばムーブメントは精密機器ですから、クリーンルーム環境や相応の設備を要します。かつ、その大半は薄利多売の大量生産ですから、新規参入がしにくい市場です。その上、汎用性のある一般の時計は、すでに成熟した製品のため、なかなか革新的な企業が出現する余地もありませんでした。この辺りの事情が、日々革新を続けるスマートデバイスとは異なる点です。次項では、時計業界を規定するムーブメントの全体像を分かりやすく掴んでみましょう。

 

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