ヨーロッパが中国(アジア)を逆転した歴史には何があったのか

逆転の世界史 覇権争奪の5000年

逆転の世界史 覇権争奪の5000年

 

 

世界史をざっくり俯瞰するという試みは非常に新鮮です。特に、政治史に左右されず、大きな視点で人類史の進化を見ることになります。意外な最初の疑問は、文明の基礎となる農業社会への転換です。それほど貧しくなかった狩猟移動生活を捨て、なぜ人類は農耕定住生活へと転換したのか。いまだに続く謎なのだそうです。初期の農民が入手できる食料は決して豊富ではありませんでした。飢餓のリスクも高まりました。さらに農業は人口の密集と物々交換という事態を招いたので、伝染病にもかかりやすくなりました。まぁ、本書がどう書いたとしても、農耕生活には大きなメリットがあったはずです。それを経験したからこそ、農耕生活の中で、不断の進化を図ったのが人類です。

 

古代においては、中国が世界最先端の地域になっていきます。前2000年には国家が形成されました。そして鉄製武具の普及や青銅貨幣の導入によって社会の分業が進みます。そんな中、政治の世界で、始皇帝による国家統一がなされると、様々な社会のルールが統一されます。ここに、古代版ユーロとも言える経済圏が誕生しました。秦の治世は急激な改革であったため長く続きませんでしたが、漢もやがて秦のような政策を採ります。 武帝の時代には、西域も手中に治め、広大な中華単一市場が完成しました。さらに隋唐時代の大運河建設で物流が一気に高度化し、宋代の時、ついに開花します。技術革新と宋銭鋳造、商工業の発展が相まって、未曾有の経済成長を果たします。それを受け継いだ元代には、交通インフラが広範囲で一気に整備されたようです。

 

 

 

しまねバーチャルミュージアム 石見銀山

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16世紀、明代:中国の経済が成長してくると、銅貨幣がどんどん不足してきました。銀貨の需要は大きくなったのですが、それに応えたのが海外の銀でした。ひとつは日本の石見銀山。もうひとつはメキシコ銀。なんとそれらは、前者がポルトガル、後者がスペインによって運ばれました。もうこの頃、ヨーロッパ勢は中国の直ぐ傍まで来ていました。アジアの海はいつの間にか、ヨーロッパ人の手中に陥っていたのです。

 

話はポルトガル、1498年に遡ります。ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰経由のインドルートを発見します。徐々にその輸送ルートが増え、17世紀に入ると、ポルトガルのこのルートが香辛料貿易を独占するようになります。特に王室とは異なる商人の存在が、ポルトガルの強みとなりました。また、その頃、ポルトガルは大西洋を越えて今のブラジルにも達していました。特にポルトガル商人を儲けさせたのは黒人奴隷貿易でした。当時、地中海には強大なオスマン帝国が存在し、ヨーロッパ人の出る幕はなかったようですが、災い転じて福となしたポルトガルは、アジアから、中・南アメリカに至る広大な海で存在感を示し続けたのです。

 

 

NHK高校講座 | 世界史 | 第23回 ヨーロッパの主権国家

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16~17世紀、ヨーロッパでは大航海時代が始まっていましたが、域内でも重要な動きが起こっていました。それが主権国家の誕生です。中世のローマ教皇の影響から脱し、各地でそれぞれの国が、独立をかけてそれぞれの模索を始めていました。スペインは海外の植民地を使って繁栄を極めました。イギリスはみずからを立て直し、そのスペインと対峙しました。そのイギリスを応援したのが、綿織物で栄えたオランダでした。スペインから独立をしたことが契機となり、イギリスと結んだのです。このような複雑な関係性の中で、オランダは海外貿易・海外投資に本腰を入れていきました。またオランダの重要な役割のひとつとして、出版の中心地でもありました。

 

 

オランダの後を引き継いだイギリスは、新しいシステムで海外貿易に臨みました。それが、原材料を輸入し、綿織物を工場生産で完成させる方法です。さらに、綿織物はアジアに輸出されました。動物繊維と比較して、植物繊維ははるかに効率よく生産できます。その優位性を生かしたイギリス製品は、アジアとの貿易で黒赤を逆転させることができたのです。ここに「世界の工場」と呼ばれるイギリスのヘゲモニーが確立しました。

 

 

夢ナビ 大学教授がキミを学問の世界へナビゲート

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19世紀後半、世界の距離は一気に縮まりました。いわゆるグローバルゼーションです。1869年にスエズ運河が開通し、ヨーロッパとアジアとがより近くなりました。 蒸気船も登場しました。日本に、ペリー提督の率いるアメリカの蒸気船が来たのもこの頃です。しかしイギリスがすごかったのは、電信です。世界の電信の大半を敷設し、他国に使わせました。この手数料がすごかったようです。「世界の工場」イギリスの実態は貿易赤字だったのですが、それを補ったのは、海運業や保険・貿易、そして電信手数料でした。世界中の電信網を可能にしたのは、マレーシア産のゴム(ガタパーチャというゴムに似た素材)でした。これによって海底ケーブルが誕生しました。金融の中心、情報の中心を握ったイギリスはその後もこれで食っていくことになります。

 

話を中国に戻しますが、朝貢貿易を基軸にした中国は、他の国が自国船で貢物を持参し、その何倍もの価値の返礼をしたとされます。中国がみずから世界の海に乗り出すことはほとんどありませんでした。そのことが、グローバルの波に乗り遅れ、ヨーロッパからの侵略に翻弄されるだけの存在に成り下がってしまう結果となりました。なぜヨーロッパの人々が海に乗り出し、中国の人々が内にこもったのか。それを明確に示す根拠はありませんが、個人的には冒頭の問いに似ているような気がします。人類の中には、狩猟生活を捨て、農業生活を選んだ一派がいた、と。その選択の違いが異なる歴史を作っていった。それは本書のタイトルが示す「逆転の歴史」でもあったようです。