古きに学びすぎて失敗した中国が、再び儒教に回帰する理由

 

中国の専門家というに相応しい方の書です。難解ではありながら、巨視的に、中国を俯瞰し、決して感情論に流されない、面白い解説が満載でした。情報量がありすぎて大変な本書ですが、ここでは二点に絞りましょう。ひとつは「儒教」。中国で最も早くできた思想体系です。儒教は、私たちの感じている通り、宗教ではありません。神もいなければ、死生観もないのが特徴のひとつです。個人よりも社会との関わり方を重視しているように見えます。たとえば「礼」は儒教の道徳・教義を実践するためのものであり、世の中の安定を築くための、施政者にとって都合のいいものでした。それゆえに上下の関係を重んじ、中国の対外秩序にも大きく影響を与えたように思います。

 

もうひとつは、「西洋の衝撃」。18世紀、イギリスが全権大使を派遣(乾隆帝時代のマカトーニ)、対等な貿易を望みました。しかし、長らく、冊封体制を対外方針としてきた中国側にとって、これは呑めない要望でした。この対立が先鋭化したのは、あのアヘン戦争です。イギリスの強引な対等貿易策が、アヘンの密輸を促し、清朝の反発を喰らいました。そして両者はついに激しい戦火を交えます。しかし、中国はイギリスにボロ負けし、ここに中国の屈辱的な100年もの大混乱が始まってしまいました。

 

アヘン戦争はナゼ始まり、どう終わった?恐ろしすぎる英国のヤリ方と不平等条約 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

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 アヘン戦争の敗北によって、中国は目を覚まされます。西洋の秩序を突然強要され、上下関係を基軸にする華夷秩序は有名無実化しました。当たり前すぎる儒教的価値観では、西洋の軍事力・技術力にはまったく対抗できなかったのです。そうは言っても、当時の中国にはたくさんの知識人がいました。彼らは何をしていたのでしょうか。敵に学ぶこともできず、誰が何をどう変えるかという改革意識が芽生える土壌もありませんでした。そんな中、中国内部では大動乱が始まります。太平天国の乱です。否応にも力を持ってくるのは軍人です。他方、高級官僚や知識人からは「中体西用」という概念が生まれてきました。これは、日本の「和魂洋才」を連想させる言葉ですが、いかにも中途半端なものでした。曲解を許してもらえるなら、これは西洋の兵器・機器を導入しようと唱えただけのことです。なぜ西洋では、この技術が生まれたのかを学ぼうとした日本人に対し、中国人はお金を使ってみずからを武装しただけでした。

 

 もっと比較してみましょう。日本人は西洋のありとあらゆるものを学ぼうとしました。最後には、国家の制度体系まで模倣しました。しかし中国は、「体」を変えようとはしませんでした。明治維新ならぬ、百日維新に終わってしまった背景には、政治体制を変更できなかった限界があります。明治維新とて決して簡単な出来事ではありませんでしたが、少なくとも、江戸幕府を解体させ、まったく新しい政府が誕生しました。中国ではそれすら、辛亥革命を待たなければなりませんでした。戊戌維新の失敗から、さらに15年を経るのです。古いものからしか学べない。そんな儒教思想がここではマイナスに働いたのかもしれません。これが日中の命運を分けてしまいました。

 

 

戊戌の変法 | 世界の歴史まっぷ

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では、辛亥革命(1912年)がもたらしたものは何でしょうか。清朝を滅ぼし、西洋に学んだ孫文を臨時大総統に迎え入れ、いよいよ近代化の始まりかと思われました。しかし、その後の中国は、革命のオンパレードでした。政権奪取の試みが次々と起こり、軍事的に優位だった袁世凱が、権力を手中に収めます。ただ、彼は政治的には目立った存在でしたが、実際には中国全土で政権末期の混乱状態が続いたままでした。1920年代、そこに大きな変化のうねりが生まれます。それが、国民党の拡大と共産党の誕生です。両者は母体を同じくする双生児のようなものです。孫文の唱えたとされる「三民主義:民族・民権・民生」は大きく変容し、反帝国主義、共和制、武力革命の実現を第一に掲げた国民運動になっていました。反帝国とは まさに反日であり、共和制とは軍閥の勝手を許さないことでした。しかし、武力革命という点では、英米の支援を受ける国民党と、ソ連の支援を受ける共産党に分かれてしまい、のちの悲惨な内戦を招いてしまうのです。 

 

その後の歴史は、まさに現代史です。内戦に勝利した共産党は、理想郷を思い描き、国家主導の大改革を行います。計画経済にて、経済の立て直しを図ったまではよかったのかもしれません。しかし、「大躍進」以後のの、度重なる大失政は取り返しのつかない事態を招いてしまいます。それが文化大革命です。気の狂った国家指導者が、多くの国民の階級闘争を煽り、正常な生産活動ができなくなる悲劇を招きました。 未曾有の人災となったのは、今日の中国指導層も認めるところです。

 

 

まとめですが、儒教的価値観を基礎にした中国の論理は、近現代にて大きく揺らぎました。そもそも現状秩序を肯定するだけの儒教には、他の文明と争えるだけの迫力がなかったのです。その後の百年の混乱で、ついに新しい政治体制(共産党政権)が誕生しました。しかしその借り物の思想(共産主義)は、極端な実験を行い、大災難をもたらします。その歴史を無視したイデオロギーだけでは、国民は思った通りに動いてくれないのです。そして改革開放以後の中国は、それを教訓に、秩序の安定と経済の再建だけを目的にしました。それが、鄧小平の推進した現実路線です。とにかく富を稼げ。それが同氏の推進した唯一の道でした。それから数十年、儒教的価値観は再び、国民生活の中に復活しつつあります。なぜなら儒教とは、過度な拝金主義を抑え、国家分裂のほころびを埋めようとする智慧でもあるからです。本書ではそこまで触れていませんが、王朝が乱れて来た時、革命が起こりやすい土壌でもあるのが中国です。中国の現政権が自浄作用をもつ、民主的な政権であることを願いたいものです。

 

<中日対訳>鄧小平氏の名言録_中国網_日本語

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