千葉を訪ね歩く(前編)

新発見! 千葉

新発見! 千葉

 

 

千葉を語るのに、江戸との関わりははずせません。 

 

今日では日本最大の流域面積をもつ「利根川」、そして上流の渡良瀬川の水を東京湾まで結んでいる「江戸川」。この二つが接しているポイントは関宿です。今は野田市に属しますが、江戸時代には関所が置かれ、関宿藩として独立していました。この町の重要性は、利根川の東遷事業に始まります。もともと水運の要所だった場所ですが、当時、江戸湾に流れ込んでいた利根川を、銚子方面に付け替え、あらたに江戸川を開削するという大工事でした。

 

関宿で学ぶ、江戸時代の舟運と産業 :里川文化塾 開催レポート│ミツカン 水の文化センター

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利根川の東遷 | 利根川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

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利根川の膨大な水量を東へ流し、その水を用いて新田開発が進められました。また、これで江戸の町を水害から守ったことにもなります。さらに、この利根川水系の輸送力をもって、醤油のような産業が発展しました。この大事業は60年をかけて完成するのですが、関宿の地では延々と苦労が続いていたようです。「利根川と江戸川に挟まれたここの地名は『三軒家』といいますが、これはしょっちゅう洪水で流されて家が三軒しかなかったから」という地名にも現れています。

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今日見られる関宿水閘門の場所には、江戸時代には「棒出し(ぼうだし)」と呼ばれる土手が築かれていました。人工的に川幅を狭め、両岸を石枠や杭で固めました。ここで江戸に流れる水量を調整したのですが、それでも不十分で、洪水は度々起こっています。ゆえに、改修工事は何度も繰り返され、コンクリート造りの関宿水閘門ができたのは昭和27年です。つまりそれだけ、この問題は人々を苦しめつづけたのです。そんな歴史は、関宿博物館で見ることができます。

 

千葉県立関宿城博物館

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その他、同書では、千葉をめぐる歴史的な小咄を19篇も収録しています。

 

水戸藩最後の藩主・徳川昭武が建てた戸定邸。その敷地の3分の1は戸定が丘歴史公園として整備公開されています。戸定邸そのものは、1884年(明治17年)に建設されたそうです。歴史館には、幕末の貴重な写真が多数公開されています。

まつどやさしい暮らしラボホームページ

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御成街道とは、船橋-東金間をほぼ直線に結ぶ総延長約40キロメートルの道路です。

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東金とは、船橋(本町の東照宮)からさらに西へ37km、その街道を下った先にあります。もしそこから逆方向に30kmも行けば、江戸城跡に至りますので、徳川家康は、(江戸城から見て)倍以上の距離へと道を伸ばしたことになります。

徳川家康が愛した日本の原風景が味わえる町 千葉県東金を歩く | ☀ ♨ 国内旅行365

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 富津岬の先端とはかつて西欧列強が来航していた幕末・明治初期にあって、かなり緊張した場所でした。それもそのはず。ここは東京湾に面し、江戸を守る防波堤のような位置だったからです。1822年富津台場が建設され、砲台が設置されました。今日でこそ「黒船」事件は、文明開化の象徴ともなっていますが、当時の人々にとっては、国の存亡を左右する恐怖の存在だったのです。

夕焼けバックに建つ要塞のよう!富津「明治百年記念展望塔」 | 千葉県 | トラベルジェイピー 旅行ガイド

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貝塚とは、縄文期に人々が生活をした跡地であり、日本全国で2500箇所も見つかっているそうです。そのうち関東には1000箇所も集中しており、千葉は日本最多の貝塚密集地でした。二つの八の字形に囲まれている日本最大の加曽利貝塚は、博物館も設置されています。

千葉市:加曽利貝塚について

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加曽利貝塚について

 

 

千葉には、世界がその名称を使う場所があります。それが、市原市の地層です。「チバニアン」と命名されていますが、地球の磁場(N極・S極)が最後に逆転したことを証明する地層なんだとか。約77万年前のことのようです。

www.sankei.com

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意外と知られていない千葉・歴史の旅。日本列島(本州など四島)の形状は「逆L字形」ですが、それでいくと、千葉は東の端とも言える場所です。ゆえに(中国大陸から来た渡来系の人々からすると)「未開の地」だったという見方もあるでしょう。しかし貝塚の密集地であり、古墳も多数存在しているこの地は、まだまだ多くの謎が掘り起こせそうです。本書については後半でも、千葉の歴史的な魅力を抜粋してみようと思います。