物価安定と中央集権に挑んだ豊臣政権は、「米」貨幣に抱きついてしまった

経済で読み解く豊臣秀吉 東アジアの貿易メカニズムを「貨幣制度」から検証する

経済で読み解く豊臣秀吉 東アジアの貿易メカニズムを「貨幣制度」から検証する

 

 

織田・豊臣の時代は、「安土桃山時代」とひと括りにされがちです。そして江戸時代になってようやく、新しい政治体制や法治体系が出来上がったため、ひとつの区切りになりました。しかし、本書はそこに切り込んでいます。実は、豊臣政権の時代に大きな転換がなされ、江戸時代に継承されていたことがある、と。それゆえに、著者の同シリーズは、わざわざ、「豊臣秀吉」と「織田信長」を分けて、出版されています。なかなかもって鋭いという風に、感心させられました。

 

豊臣政権の政策 - 歴史まとめ.net

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織田信長が登場した時代(

デフレ脱却に挑んだのは、織田信長とて同じだった - 夜明け前の…

)は、社会の混乱要因をいかに脱するかが重要なポイントでした。信長は、貨幣に理解を示し、米の物品貨幣利用を禁止しました。そして「撰銭(えりぜに)令」でもって、貨幣流通を促しました。撰銭とは、商取引に際して悪銭を嫌い良銭を選ぶこと。撰銭令は、撰銭をしろという命令ではなく、撰銭してもよい基準を示し、無制限な撰銭をやめさせる法令のことです。ゆえに、悪貨を一定の基準で活用する法令なのです。しかし、秀吉が天下を統一する過程では、これを放棄してしまいます。なぜでしょうか。

 

 

【撰銭令とは】わかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など | 日本史事典.com

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長らく続いた貨幣の混乱は、かつて導入した宋銭の不足が原因でした。貨幣はボロボロになり、私鋳銭も混じってしまい、取引のたびに面倒な交渉が必要になりました。それゆえに、中世においてはたびたび「撰銭令」が出され、粗悪銭を排除しようとしましたが、それでは貨幣供給量が下がるばかりです。しかも良貨は保存され、悪貨が先に市中に放出されるため、混乱は深まるばかり。この改革に着手したのが秀吉でした。

 

秀吉は経済の根幹を、米に置きました。正確な測定(検地)を行い、まずは土地の基準値を設定したのです。混乱を脱却できない貨幣より、安定性の高い、しかも必需品であるお米に、取引価値の担保をさせました。時はまだ、全国平定されていない戦国時代の真っ只中、おそらく米の供給は需要に追いついていなかったことでしょう。米価は安定し、かつ高値を維持できたはずです。こうして物品貨幣となった米は、「石高制」を産み、全国の大名統治を容易にさせました。秀吉色に染まっていく日本列島は、石高単位で分け与えられ、時には大名の配置換えなどにも利用されました。各大名を、土地支配から切り離していくことも、中央集権化を進める上で非常に重要だったのです。

 

しかし、秀吉の改革は、実は経済の要請と真逆のものでした。当時九州ではすでに銀貨が普及し始めていました。それを無視し、眼の前の米に抱きつきました。短期的には物価安定に寄与しましたが、最終的には「貴穀賤金」という副作用的思想を根付かせてしまいます。これは、「米などの農産物が貨幣よりも尊い」という考え方であり、農民が商人より上の地位につくことにも関係してきます。日本でせっかく産出された莫大な金銀は次々と海外に流出してしまい、結局、秀吉の時代、日本社会に定着するには至らなかったようです。もし、貨幣制度に注目が集まり、活発な経済活動を奨励していたなら、日本はもっと早く、「明治維新」を迎えられたのかもしれません。

 

貨幣博物館/東京の観光公式サイトGO TOKYO

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4冊続きましたが、所詮貨幣、されど貨幣。そんなことを上念氏のシリーズ書籍に教えられました。