日本の独自性はどこから生まれてきたのか

 

日本史を、世界との関わりの中で概括的にとらえる、その大切さがよく分かる一冊です。隣国に大国・中国を抱きつつ、近くも遠くない距離を保つことができ、日本らしさをみずからコントロールし続けることができました。具体的には、中華文明の恩恵を積極的に享受しつつ、その冊封体制に完全に組み込まれることなく、みずからの主体性で国を進化させてきました。しかし国としてはずっと未成熟な状態であったがゆえに、各地で自警団が発生し、やがてはそれが侍という武装集団になりました。戦国時代には、西欧の鉄砲に学び、たちまちそれを国産化してしまうだけの技術力を有し、幕末に至るまで、海外の植民地にならずにすんできました。明治期には近代化を進めてアジア唯一の列強国となり、太平洋戦争の敗戦後には経済大国にまでのし上がりました。

 

こうした日本の歩みは、世界の影響にさらされながら、一度として征服されるなかった日本らしいものです。しかも、日本の市場は意外なまでに大きく、同じイギリスと比べると歴然です。1700年頃のイギリス人はわずか675万人(今日では6600万人)に対して、日本は2900万人(同12000万人)。当時の首都・江戸だけで同時代比較しても、世界有数の大都市でした。

 

 

 

そもそも日本列島の位置は、ユーラシア大陸の一番の端です。そこで文明が発展していくためには、必ず、絶え間ない人の移動がありました。しかし、人の移動は自然発生的に起こるわけではありません。たとえば弥生人が鉄器をもって大陸からやってきたのは、中国大陸での(殷から周へと)王朝交代があり、難民となった人が渡ってきたようです。実は、日本神話に、その頃の物語が克明に書かれています。征服者がやってきた時、日本列島にはすでに土着の王権が存在していたそうです。いわゆる『記紀』に書かれた「国譲り神話」の内容です。これはおそらく縄文期の王権が、弥生の王権に移行するプロセスだったのでしょう。DNAなどの調査を勘案すると、出雲には縄文期の王権があり、奈良にはのちの大和政権に進化していく弥生王権ができたはず。それを示すのが纏向遺跡。ここでは、日本列島各地の土器が大量に出土し、国家連合の中心であったことを伺わせます。

 

纒向遺跡寄附金の使い途(事業紹介)/桜井市ホームページ

http://www.city.sakurai.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/9/makimuku1.jpg

 

 

当時の日本には複数の地方政権があったと考えられています。福井県から新潟県までの北陸道に、そして出雲に、強力な王権があり、朝鮮半島との深い関係があったことでしょう。また、日本列島が統一されていく中で、朝鮮半島の南端(任那)にも日本の勢力が及んでいたという議論がなされています。少なくとも、半島と日本との交流は頻繁で、それがのちの仏教伝来につながっていきます。聖徳太子は、その仏教を政治の中核にすえ、中国風の政治改革(憲法や官僚制度、そして対等外交)を推進しました。 蘇我氏が太子を支え、日本の伝統勢力の代表・物部氏を排除していきました。両者はいわゆるグローバル改革派と伝統重視の保守派との対立に見立てることができるでしょう。

 

しかし、そのグローバル派を支えた百済国(朝鮮半島)が、中国に誕生した唐帝国の軍に滅ぼされてしまいます。日本はその半島情勢に巻き込まれ、最悪の結果;白村江での大敗北を経験するのです。この間、半島関与を掲げた天智天皇から、やがて国内整備を優先させる後の天武天皇へと政権が移ります。そこで日本は、唐(大陸・半島)と一定の距離を置いた内外政策を固めていきます。唐に学ぶが、唐に服属するわけではない。それが日本の一貫した態度でした。

 

白村江の戦い - 世界の歴史まっぷ

https://drive.google.com/uc?export=download&id=1ri9Mv6aJnBiNLOLoGoL5dVbajxvk0EiH

 

 

ところが、唐の仕組みは、古代の社会主義体制でした。国家が土地を所有し、農民に貸与する。自由な経済活動はあまりなく、官僚機構を重視するものでした。当然この仕組では、国家権力が肥大化すると、労働意欲減退や官僚腐敗を招きやすく、財政難に陥りやすい。これに学んだ日本も、早々に立ちゆかなくなり、私有地を認める方向に変わっていきました。これが荘園を生み、中央政府の力を弱体化させます。やがて、荘園を守っていた武装集団が力を持ち始め、武士の世に移っていくことになります。アジアには、武士階級がなく、日本固有の存在と言えます。

 

日本では、武士政権の時代になっても、隣国・中国の影響を受け続けます。その最たるものが「銭」です。宋の時代には「宋銭」が、そして元の時代になっても、莫大な銭が海を渡りました。ひとつには、中国で紙幣が普及した時代があり、銅銭がだぶついたからです。明の時代になると、中国はみずからを閉ざしてしまいますが、時の政権・足利義満は、朝貢形式をもって貿易を続けました。日本が戦国時代になると、明朝が誕生します。ところが明朝は、農村を基盤とした閉鎖的な政権です。経済が活性化することなく、貨幣政策にも消極的だったため、デフレに陥ってしまいます。これが誘引となって、日本の銀が大陸に吸い込まれていくのですが、戦国大名が積極的に鉱山開発を行ったのは、こうした海外情勢があったからです。有名なのは石見銀山ですが、メキシコ銀が中国に流れていくルートに乗って、日本から流出していきました。

 

 

世界史のなかの戦国時代〜石見銀山が世界経済を動かす - 岡本隆司(京都府立大学准教授)

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もうひとつ。この戦国時代、その末期。私たちがあまり学ばない重要なことがあります。豊臣秀吉の全国統一事業の中(戦乱の終結が近づくに連れ)、日本国内の武人たちが、国外へ飛び出すようになったことです。日本人傭兵です。オランダやイギリスが、日本の浪人を雇い、東南アジアでの植民活動を進めました。あのシャムの山田長政も、実は日本人傭兵の一人でした。徳川家康の時代になると、鎖国政策へと舵を切り、日本人の海外渡航は禁止されます。もちろん、帰国も許されません。さらに、キリスト教の布教活動も禁止したため、日本は、西欧の植民活動にさらされることなく、太平の時代を迎えることになります。

 

海外との扉を、みずから自由に開いたり、閉じたりできる、それが日本の最大の特徴です。こんな恵まれた国は、世界にもあまり例がなく、世界と関わりながらも、日本固有の要素が社会に根深く残る、稀有な社会を実現してきたのです。