中国経済史から見た、中華帝国没落の原因を探る

近代中国史 (ちくま新書)

近代中国史 (ちくま新書)

 

 

国史の書籍というと、辞典的なものか、偏見にあふれたものが多いのですが、本書は良書です。しかも経済の視点から、王朝の交代や民衆の生活を見ていこうとする試みです。政治史とは違い、人口の推移を見ながら、その背景にある経済を読み解いているのが非常に興味深いです。たとえば、各王朝末期の混乱期から人口が急減するのは(戦乱や殺戮のせいなので)何となく分かるとして、基本的には各時代の食糧増産の具合が人口規模に現れていると見ることができます。たとえば宋・元の時代、人口は急増します。この頃、江南デルタで水田・稲作が急拡大したからです。南から莫大な物資が北に向かうというのは、新しい流れです。大運河が造営されたり、食糧増産から嗜好品生産へと一部で転換が進んだり、さらに元の時代になると、先進的な通貨政策が登場し、社会の商業化は一気に進むかに見えました。しかし、気候が寒冷化する14世紀には、それもまた挫折してしまいます。糧食に困らない時代背景があって初めて、各種商品の生産と取引が活発になるからです。

 

读史看未来,中国人口的怕与爱_《新财富》杂志手机站点

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 明代の政権は非常にユニークです。明の太祖・朱元璋は南部の武力闘争を勝ち抜き、北部の元勢力を駆逐しました。典型的な軍事政権であったため、勢いそのままに徹底的な「外夷」討伐を行いました。戦争は当然、大量の物資を必要としましたので、南部の資源が大量に運ばれました。徴税も、手っ取り早く現物主義(徴収した食糧をそのまま最前線に持っていく)でした。食糧問題を重視した明朝は、土地・人民を調査し登録させる「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」を始めました。日本で言えば検地のようなものでしょうか。この膨大な需要は、かつて中国全土を支えた南部の江南デルタ(「蘇湖」)でも支えきれず、穀倉地帯の役割を内陸の広大な「湖広」に譲りました。

 

 

【高校世界史B】「明と清は世界で1番お金持ち!?」 | 映像授業のTry IT (トライイット)

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 「外夷」戦争、すなわち中華世界の統一を最優先させた明は、貿易を禁止し、貨幣の流通にも消極的でした。久々にできた漢人政権は極めて内向的な政権だったのです。このことが実は日本史と深くからむ理由になります。当時、日本は世界有数の銀生産国となっており、それが海賊経由で大量にもたらされた。「倭寇」です。密輸に対する海賊の登場、現物主義に対する銀の供給、両面に渡って、日本は新しい政権を悩ませ続けたのです。しかし明代は、建国当初の理想に固執し、「北虜南倭」対策にのめり込んでいきました。これが、やがてはみずからを滅ぼすことになります。

 

第25回日本史講座まとめ⑤(日明・日朝貿易) : 山武の世界史

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同時期に、地球の東西で行った「商業革命」は、余剰生産が実現した後の当然の成り行きでしたが、その後の展開はまったく異なりました。中国では十分開花しきれなかったのです。そのひとつの原因が、明代の、(先述した)現物主義政策にあったと指摘されています。西欧の重商主義と正反対です。その後、少数民族清朝が明朝に取って代わりますが、圧倒的な人口差があったため、その大半は明代の仕組みを受け継ぎました。すなわち、農業に基礎を置き、地域の地主や代官にすべてを丸投げする仕組みです。中央の為政者は納税者(地域権力者)だけを相手にし、民間・末端には関与しないという社会の二元構造が、中国の常態となりました。つまり、中国の末端には、いつの時代も、中央国家の法の支配が及ばないままだったのです。

 

 

为何富裕的宋朝强盛不起来?(图)宋朝 | 唐宋 | | | 繁荣 | 商业 | 建筑 | 天朝风云 | 看中国网

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タイトルの和訳は「なぜ豊かな宋朝が強くなれなかったのか」。宋の時代、社会の生産力は大幅に強化されました。中国四大発明のうちの三つも、この時代です。ところが宋代を象徴する都市の様子は、極端なまでに文化的・享楽的で、あのモンゴルを相手にできるほどの質実剛健さに欠けたようです。

 

 

さて話を戻します。

 

国家の関与がないとどうなるか。そこには財産・契約を保護する後ろ盾がなくなります。商人経済の発展はそこで大きな足かせをはめられました。明清期を通して、中国には膨大な中間団体や秘密結佐が作られましたが、それは、このような商業秩序の不備を補うためのものでした。血縁・同郷・同業団体が、規約や慣習、時には暴力をともなって仲間を守りました。他方、清朝になってからの大きな変化もありました。それは対外貿易を認めたことです。17世紀、イギリス経由で大量の銀がもたらされました。それが貨幣不足に悩む中国経済を大いに助け、未曾有の好景気を演出しました。清朝の人口増もこの時にもたらされています。

 

 

清朝最厉害的四个皇帝是谁 - 千瓦网

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タイトルの和訳は、「清朝時代の偉大な皇帝4人」

 

 

この「中間団体」と「イギリス」、両者が結びつき、清朝を滅亡に追い込んだのは周知の通りです。大量の銀を中国に吸収されたイギリスは、それを取り返すためにアヘンを売りつけます。そのアヘンを流通させ、みずからも稼いだのが、「中間団体」です。もともとは納税者だった彼らが、外国人と結託し、密輸・脱税の量を拡大させていきます。アヘン戦争と聞けば今でも、イギリス憎しとなってしまいますが、その実、中国内部にはこれとつながる膨大な組織が存在したのです。不法な儲けが増えた中間団体はやがてみずから武装し始めます。政府側もこれに備えました。こうして反乱勢力と義勇軍が膨張し出すと、中央政府の手に負えなくなります。清朝末期の内乱状態は、イギリスという導火線によって、内部の問題構造に火が突いた結果だと言えなくもないでしょう。

 

ざっと見てきただけでも分かりましたが、中国という広大な帝国は、統治するには大きすぎました。しかも、外の異民族と漢民族との統治が順々に入れ替わるので、この巨大な帝国を、法の体型と制度で統一的にまとめるのは極めて困難だったようです。本書でも指摘されていますが、それが中国をして二重の統治構造を内包せざるを得ず、引いては、個人の自由を解き放ったダイナミックな活動を阻害し続けることになります。