近代日本の夜明けは、激しい葛藤と模索の中で始まりました。

 

上念司氏のあっけらかんとした人柄に惹かれ、手に取った本書のシリーズ。こちらは前回に続く、2冊目です。明治維新はなぜ起こったか。本書の結論としては、特に必要はなかったという意外なものでした。なぜなら、明治維新以降で実施された政策は、江戸幕府でもやれた政策ばかりだと言うのです。たとえば、地租改正、貨幣制度、対外開国、国民皆兵など、後二者は私が加えました。そんな視点で見直すと、明治政府が江戸幕府の基礎の上で「衣替え」しただけの官僚国家だったのにもうなずけます。何度かのチャンスがあり、江戸幕府みずからが改革で延命を図ることは十分可能だったそうです。

 

しかし、経済という体の上にかぶした衣服、すなわち政治体制を変えるのは決して容易なことではありません。もともと脆弱(中央政府が全国的な徴税権をもたない状態)だった幕藩体制は、デフレ体質を有していました。各藩は藩札を発行して、経済を活性化させようとしますが、米に依存した藩財政や各藩任せのインフレ整備、さらには信用取引の停滞など、経済を拡大させる誘引がほぼほぼなかったようです。

 

 

「デフレ経済」が江戸幕府の崩壊を招いた | プレジデントオンライン

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経済活動が高まるというのは、ひとえに、「生存のための食糧」以外のモノがたくさん作り出されることを指します。生産性が高まり、モノが集積し、十分に取引されることで、全国津々浦々に様々な物資が提供されます。こうやって庶民の生活は豊かになっていくはずなのですが、江戸時代にはその仕組がありませんでした。いや、正確に言えば、ここ日本では見事な資本主義の萌芽が見られたにも関わらず、経済を知らない施政者によって中途半端だったようです。極めて弱い中央政府と、分断された国土の下で成立していたのが江戸期の幕藩体制でした。それでも江戸初期には、戦乱を終結させ、鉱山から掘り出した金銀をばらまき、新田開発を奨励したことで、経済成長が続きます。そこに参勤交代などの人の移動が国内の交易を促進させました。この期間で、江戸期の幕藩体制が盤石なものになったのは当然でした。

 

ところが良い時代はいつか終焉を迎えます。三代将軍・家光が死去し、第四代・五代の将軍の治世になると、金銀採掘は枯渇し、新田開拓の余地もなくなってきました。結果、金と米に依存した幕府の財政は苦しくなるのですが、その浪費癖はなかなか直せません。その経済の曲がり角にあって、幕府があらたに取り組んだ政策が「貨幣の改鋳」でした。幕府の金銀ストックもなくなりつつあった頃、悪い貨幣を大量に供給し、金融緩和と財政再建の両立を狙いました。これによって生まれたのが、未曾有の好景気、元禄バブルだったのです。米価で計算してみると、年率3%程度のインフレだったらしいので、バブルと言っても、ほぼ理想的な景気浮揚策だったのかもしれません。

 

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その後の江戸幕府は、経済政策がコロコロ変わります。新井白石が登場しまさかのデフレ政策に転じました。八代将軍・吉宗はとにかく米価にこだわり、経済より財政再建に重きを置きました。本当の景気対策は田沼の時代です。しかしその後の、いわゆる「改革」のたびに再三、デフレ政策に戻り、幕藩体制の維持だけが自己目的化してしまいました。これが江戸幕府の限界です。そこにやって来たのが黒船で、為替レートの交渉において大きなミスを犯してしまいました。当時の金流出・銀暴落はこうして生じ、貨幣の改鋳と政治の混乱がそれに拍車をかけました。デフレが原因となって国内が騒然とし、混乱に至って物価が高騰する。これが政権の崩壊する典型的なパターンです。

 

ジリジリと迫る江戸幕府の瓦解。各藩はそれらに耐えることができず、幕府自身もどうしていいか分からなくなっていたようです。そんな間隙をついたのが、薩摩・長州といった雄藩でした。殖産興業で資金をため、豪商からの借金もうまく利用しながら、軍事力を整備しました。貿易港である長崎が近かったことも功を奏したでしょう。経済力で手にした武器は、幕藩体制に終止符を打ちました。まもなく民間活用にも優れた雄藩の志士たちが幕府に取って代わります。一番大きかったのは、新政府の経済政策が、米を軸にした体制維持のためではなく、「富国」目的へと転換されたことです。身分制等が撤廃され、お金を軸にした「インフラ」整備主導型の中央集権国家が誕生しました。江戸時代に芽生えていた数々の資本主義のメカニズムが、新政府によって活用され、明治時代以降の変貌は極めて劇的なものとなりました。

 

江戸期の素晴らしい日本社会と、それをうまく活用した明治の新体制。その二つが融合し、日本の文明開化を支えたのです。

 

 

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