自然の変化に対処する人類の歴史

 

 歴史とは、人の手による記録によって書き継がれます。1500年もの昔から、ここ日本では、歴史書の編纂がなされ、当時の知識人による記録(日記)が始まりました。しかし、科学技術の進んだ今日、世界的な調査があちらこちらで進んでいます。その代表例が「古気候学」です。太陽活動に着目し、太陽放射の微細な変化がいかに地球全体の気候システムに影響を与えてきたかが明らかになっています。その証拠は、樹木の年輪やグリーンランド・南極等の万年雪(から採集した氷床コア)から見つかりました。

 

  • オールト極小期:1040年頃から1080年頃までの40年間。8世紀に太陽活動が活発化していた後の小康期。
  • ウォルフ極小期:1280年頃から1350年頃までの70年間。長く続いた中世温暖期が終焉した。
  • シュペーラー極小期:1420年頃から1530年頃までの110年間。全体的な小氷期の最初。
  • マウンダー極小期:1645年頃から1715年頃までの70年間。小氷期の中で最低温を記録。
  • ダルトン極小期:1790年頃から1820年頃までの30年間。

 

藤原定家が見たオーロラ、巨大磁気嵐パターン解明の手がかりに | マイナビニュース

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科学的に明らかになった気候変動と、それを裏付ける当時の人々の記録。しかもそれが同じ年の、地球上各所で起こっていたとしたら、私たちは注目せざるを得ないでしょう。さらに、それが時代を動かすイベントに絡んでいたのだとしたら。

 

ちなみに、気候変動を左右するのは太陽活動だけではなさそうです。大規模な火山噴火も、影響を及ぼした事例がいくつかあります。火山噴火が排出する硫酸エアロゾルという物質は、なんと成層圏にまで拡張し、地球全体に広まってしまいます。これにより太陽放射が地表に届かなくなり、大気圏外に反射してしまうようです。たとえば、記憶に新しい1991年のフィリピン・ピナトゥボ火山の噴火は、翌年の全球平均気温を0.5度下げたと観測されました。

 

温暖化の科学 Q7 地球全体の平均気温の求め方 - ココが知りたい地球温暖化 | 地球環境研究センター

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ちょっと話は脱線しますが、近年ではあらたな要因が地球の平均気温に関わっているとされています。それが人類の活動による「温暖化」です。19世紀終盤以降(1880〜2012年)に平均地上気温が約0.85°C上昇したとの研究報告がなされていますが、これは(プラス・マイナス逆ですが)火山大噴火を凌駕することを私たち人類が一世紀に渡ってやり続けた結果ということです。特に、1950年代以降の気温上昇は顕著であり、100年間あたりで1.2°Cも気温が上昇しています。もしこの「温暖化」理論が真実なら、人類は、この地球状態を左右するほどの影響力をもってしまったことになります。ちょっと恐ろしい話ですね。

 

気温の変化は、農業を始めた人類にとって非常に重要な要因でした。7世紀後半に活発化した太陽活動は、8世紀から9世紀にかけて温暖な時代をもたらし、農業生産を向上させてくれました。フランス・ドイツ・イタリアを統治したカロリング王朝の時代には、平和と穀物増産の後押しを受け、人口が大きく伸びました(1.3倍)。中国の唐王朝も、玄宗以降の最盛期を築きあげることになりました。ところが日本ではやや異なっていたようです。寒冷期は水面が下がり大陸とつながりますが、温暖期は島国として孤立してしまいます。人口流入に頼った国土開発は難しかったようです。現に、8世紀以降の日本では人口増加が止まりました。また高温・乾燥という気候条件だったようで、干ばつと飢饉の記録が随所に見られます。これはおそらく、国としての統治能力に乏しく、灌漑設備が貧弱だった日本にとっての当然の悲劇だったはずです。

 

古代宮都の変遷(岐阜県教育委員会)

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奈良時代と言えば、頻繁な遷都というイメージがあります。しかも百年に達しない短い時代の間に目まぐるしく首都が変更されています。そのたびに、新しい都が建造され、天皇一家が移り住みました。しかし、この遷都はやむを得なかった可能性もあります。というのは、奈良時代が、仏教建築などの大土木事業時代だったからです。それによって周辺の古木はほとんど伐採されました。東大寺ひとつで製材10万石(=スギやヒノキで換算すると3.5万本)。これに金属鋳造のための木材需要2万石が加わります。これをすべての建築物に広げて考えると、東大寺の100倍と言われます。奈良時代を通して、次々と「禿山」が生まれたのは想像に難くありません。最終的には、その仏教が政治にまで口を出すようになりようになり、それを嫌った天皇は京都へと脱出しました。ここに至ってようやく、奈良・仏教の大土木時代が終焉しました。

 

飢饉と疫病の記録は、その後の歴史書にも頻繁に登場します。温暖な時代を、うまく乗り切れなかった日本は、国家として脆弱なまま鎌倉時代に入ります。1260年頃、日蓮が立ち上がり、飢餓の惨状を時の政権に向かって訴えました。これは全国的な飢饉を受けてのものです。実はその背後に、欧州・中東で起こった巨大火山の噴火の影響がありました。飢饉が続くと、農民が逃亡し、税の確保が困難になります。また、野党・山賊・海賊という反政府勢力が闊歩し、政権の土台を揺るがすようにもなります。鎌倉幕府を崩壊に導いたのは、こうした勢力が後醍醐天皇を担いだからです。また目を世界に移せば、地球規模で起こった飢餓がモンゴル軍を南方に動かしたと言えるかもしれません。やがて彼らは日本遠征を企み、先の日本史的イベントに合流していくのです。

 

地震・寒冷化・放射能汚染のまとめ

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人類文明の歴史において、その半分は寒冷期(小氷河期)で過ごしてきたようです。政権は不安定になり、技術の進化が促されます。苦境は人類を鍛えるのでしょうか。日本では「応仁の乱」前後の時代になると、やや様相が変わってきます。干ばつが減り、冷夏や長雨が増えてきます。 洪水も増えてくるため、治水が重要な対策になりました。関東の湿地帯を制し、日本を統一した徳川家康の存在は、何やらその象徴のように感じますね。

 

つくづく思いますが、異常気象そのものを人間はコントロールできません。しかし、技術と組織の動員によって、それに対処することは十分可能です。本書を読んで感じたこと:自然の変化に対処できない政権は、覆されて当然であり、逆にこれを制しさえすれば、長期政権を組むことができそうです。国家とはまさに、このような自然の脅威に立ち上がるためにあったのかもしれませんね。