千葉を訪ね歩く(後編)

新発見! 千葉

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さて後編です。

野田市の醤油製造は、学生時代に覚えさせられました。そこを本拠とする「キッコーマン」も今日ではグローバル企業として存在感を増しています。売上4000億円で、すでに海外売上が国内を超えています。醤油だけで見ても、同じようです。

 

業績ハイライト | キッコーマン

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そんなキッコーマンが誕生した地が、現在の野田市です。16世紀に同地で始まっていた醤油づくりは、1917年に会社が合同し、「野田醤油株式会社」を誕生させていました。これが後のキッコーマンの前身となっています。ちなみに千葉には、キッコーマン以外に、ヤマサ醤油ヒゲタ醤油などもあります。日本の醤油生産数量の3割を占めるのが千葉県です。

 

千葉県・野田 | キッコーマン ホームページ

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野田、そして銚子、この二大生産地の醤油は、実は江戸時代中期以降大きく飛躍します。なぜならそれまでは、関西からの「下り醤油」が幅を利かせていたからです。「下り」ではない関東の醤油は、それこそ、「くだらない」と蔑まれていたそうです。しかし、品質の向上に加え、その味わい(関東は濃い口)や輸送コスト(利根川水系の舟運)で優位にたった野田醤油は徐々に勢力を拡大。近代になると、野田の茂木家と流山の堀切家(みりんの産地)が合併し、先述したキッコーマンの誕生となります。

 

他方、銚子の醤油では、ヒゲタとヤマサが有名です。ヒゲタ醤油は田中玄蕃が創業者です。 田中の日記(1790~1872年)が残されていて、何代かに渡って書き継がれたものです。江戸時代の庶民の暮らしをする貴重な資料として文化財に指定されました。玄蕃はイワシの事業も行っていました。当時の記録から5万トン獲れたこともあったようです。イワシは天日で干され(干鰯)、綿花の肥料になりました。江戸に運ばれ、その後関西に転売されています。イワシの事業は豊漁と不漁を繰り返していたため、玄蕃は安定経営のために醤油づくりに尽力していったのだそうです。

 

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銚子の醤油ではヤマサ醤油も有名で、当主は代々濱口儀兵衛を名乗っていました。濱口家は古くから醤油生産の歴史をもつ紀州の出身でした。同社の歴史説明によると、僧が中国で学んだ味噌づくりを村民に教える時、偶然できたのが「たまり醤油」だったとか。その後、紀州から銚子に渡った濱口家が、本格的な醤油づくりを始めました。キッコーマン同様、関西本家の醤油を乗り越えて日本全国、やがては世界へと広まっていくことになります。

 

 

「ヤマサ」「ヒゲタ」醤油工場見学を比較! | イラストで綴る日常

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江戸時代の醤油文化|「江戸時代の醤油の製法」|日本食文化の醤油を知る|醤油の豆知識

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醤油づくりは文字として記録・伝承されています。それが少しずつ変化している点も面白い。味の追求、大量生産への挑戦など、醤油づくりは徐々に極められていき、ついには関東の「濃口」が誕生します。他の調味料にも味負けしないようになった醤油はその後、そばつゆや鰻のタレという派生品を登場させるまでになりました。文献がしっかりそろっているため、キッコーマンでは当時の「下り醤油」復元作業が行われています。このような試みは、企業が十分な業績を出せているからできることです。文化の担い手としての企業の役割に、今後も期待したいものです。

 

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最後に、あらためて利根川の水運について触れておきます。銚子の街には東北地方の年貢米も集まるようになっていました。ここで川船に積み替えられ、江戸に運ばれました。また千葉には、木更津や富津にも港が築かれ、新鮮な魚が日本橋の魚市場に送られました。物資の往来が盛んになることで、江戸も地方も少しずつ豊かさを享受するようになっていたようです。