大地と闘かいながら築かれた今日の東京

 

関東平野は面積17,000平方キロメートル。全国土面積の5%になる広大な土地です。そもそも日本には少ない平野部の面積で見た場合、関東平野は実に18%を占めます。ここには全人口の34%にあたる4260万人が住んでいることから、非常に重要な場所であることが分かります。関東平野の特徴は、中央部が沈降していることです。実際、縄文時代には、中央部が海面の下に沈んでしまい、とても「平野」と呼べる状態ではありませんでした。

 

1. 「くに」の成立 【農と歴史】:関東農政局

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「縄文海進」と呼ばれるのは、温暖な7000年前、大陸氷床が溶けて海の水が増えた時代に、海が関東平野に進出してきたことを指します。海水は、現在の埼玉県北部にまで達したようで、「当時の沿岸」付近には貝塚(当時のゴミ捨て場)が残されました。もっと長い年月で見ると、海水表面の上下動ばかりではありません。関東平野の沈降部は、実は、沈降し続けています。これは海洋プレートが日本の傍で大陸プレートの下に潜り込み、関東平野を下方向に引っ張り込むからです。ところが関東平野には、三浦半島や房総半島のように少し盛り上がった場所があります。この沖合でもプレート同士が摩擦しながら落ち込んでいくわけですが、その脇では盛り上がりができます。これを「付加体」と呼び、関東平野の外縁部、つまり同上半島に高い陸地ができるのです。

 

 

大地の成り立ち | 南紀熊野ジオパーク

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関東平野は、中心部の沈降、そしてそこに川が流れ込み土砂を堆積させます。他方、周辺部は隆起しますが、同時に侵食も受けます。ここに海の水が入り込んだり、引いたりして、今日に至っています。400年前、あの徳川家康が関東に移封された頃の関東平野は湿地帯が広がっていたそうです。最大の要因は、低地に向かって流れ込んでくる川です。「平野の中央部(幸手・栗橋付近)、この付近では流れが停滞して氾濫が生じやすい。かつての利根川はこの中流域において乱流し、複雑な河道網をつくった。利根川は(東京湾へとつながる)沈降の軸に沿って流路をとるのが最も自然で、何度も洪水が起こった」そうです。徳川家康利根川に東遷に着工したのは、ある意味、不可欠なことだったのです。

 

水防・治水の歴史 | 利根川下流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局

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防災基礎講座 災害事例編

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利根川の付け替え(東遷)事業の目的は二つあったと言われています。一つは治水を通して新田開発を行うこと。つまり、あらたな領地(江戸)の石高を増やすことにありました。もうひとつは水運です。当時の利根川東京湾に流れていましたが、これを東に開削し、渡良瀬川、さらには常陸川に接続させました。こうしてできた新利根川関東平野を横断して、太平洋に注ぐようになりました。この事業は60年間に渡って行われ、武蔵国の新田開発を助け、醤油・生糸・農作物などの交易を促しました。また、江戸100万都市の基礎は、東遷なくしては難しかったでしょう。しかし、その一方で、手賀沼印旛沼のような新利根川流域では、洪水に苦しめられることになります。水の自然な流れを強引に変えたツケは弱いところに集中するからです。この問題が解決するには、明治後期までの膨大な時間を要することになります。

 

ConCom | 【コンコム特別座談会】防災を考える/第一回~首都圏の防災について(前篇)

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シリーズ:インフラ ストック効果首都 東京を守る、成長を支える

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沈降している関東平野の中央部ですが、西側には武蔵野台地がせり出しているように見えます。その境界は、山手線の田端駅から上野駅にかけてです。線路を南に下り、新橋駅から品川駅間は、江戸末期の海岸線です。そこからグルっと向きを変えて、五反田駅にいたるまでは台地の中を走る目黒川の谷底に沿っています。さらに渋谷駅に至ると、渋谷川の谷底(標高15m)です。それが新宿に至ると一度台地の上に顔を出します(標高40m)が、高田馬場で再び神田川の谷底になります。つまり、武蔵野台地の先端部(=淀橋台や荏原台)をぐるりと回るように山手線が設計されているのです。地形を見ながら街づくりを見直してみると非常に面白いですね。

 

 

第3回「地名に見る地盤の診断」 | SEIN WEB

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最後に、川の谷底であった渋谷駅周辺を見てみましょう。再開発に向けて工事が進む渋谷駅前。この位置は、渋谷川の前にあります。東側には宮益坂、西側には道玄坂。それぞれの坂を上がると標高が20mも変わります。鎌倉時代にはこの二つの坂を結ぶ「谷越」のルートがあったというので、意外と歴史があります。明治になって生糸の輸出ルートとしての鉄道がこの地を通りました。これがのちに山の手線になります。また、近代東京の建設過程では、多摩川の良質な砂利がこの地に集められました。この路線は現在の東急玉川線です。この渋谷駅は周囲の台地に比べて低くなっている谷底なので、地下を走ってきた銀座線がこの位置で突然二階に出てきたり、井の頭線がトンネルを通ったり、様々な鉄道が交差する「ハブ」の役割を担うようになります。特に、私鉄の郊外延伸が渋谷のターミナル駅としての価値を飛躍的に高め、今日につながる渋谷の原型を築いていきます。

 

 

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渋谷の谷底を、日本有数の都心に仕立てのは人類の力です。他方、この広い関東平野は、自然が作り上げた日本人への贈り物です。ここを牽引役として首都圏が築かれました。祖先の奮闘の歴史は、地形を知ることから始まるのだとつくづく実感させられます。