「暗い昭和(戦前)」が、本当に暗くなっていった歴史の一面

 

逆発想で見る歴史の見直しは本当に面白いものですね。私たちがいかに一面的に個々の時代を捉えているかがよく分かります。たとえば後世の教科書に「平成」の時代が描かれるとします。一世代にあたる「30年」もの期間を、たったひと言で表現された時、違和感を覚えたりしませんか。実際、その時代を生きた私たちにとっては、毎日色々なことが起こっているのですから。そう考えると、歴史の発掘はいくらでもできそうですね。本書の冒頭では、昭和のスタートから描かれます。未曾有の第一次大戦が終わり、いよいよ戦後不況が本格化した時代(1920年~)、関東大震災がそこに追い打ちをかけます(1923年)。さらに昭和に入ってすぐ(1927年)日本でも銀行の取り付け騒ぎが起こります。こうして「暗い昭和の時代」が、金融恐慌とともに幕を開けたのです。

 

 

写真記録 昭和恐慌の時代 | 日本図書センター

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昭和3年(1928年)初めて(男性のみの)普通総選挙が実施されました。納税要件が撤廃され、満25歳以上の成年男子すべてに選挙権が与えられました。有権者の大半を占める無産者(小作農・サラリーマン・小自営業者)も選挙に参加できるようになりました。その頃、中国大陸では、軍閥割拠の時代にあって蒋介石が台頭してきます。彼は1927年に南京を占領して、北伐を本格化させます。その中で起こったのが、張作霖爆殺事件(1928年)です。教科書ではこの頃から、大陸の関東軍の暴走が始まるような書き方をしています。しかし事態はもう少々複雑です。軍部というよりは、批判合戦を繰り広げるだけの二大政党が自滅の道をたどることになります。軍部をできるだけ敵に回さず、他党の弱腰を罵り合うことに夢中になって、軍との距離感を取りあぐねるという奇妙な事態が起こるのです。ゆえに、英米等の列強と海軍軍縮協定を結びながら(1930年)、足元では満州事変が起こってしまい(1931年)、いつの間にやらその不拡大方針も、国連脱退という最悪の選択肢に傾いていくのです。

 

1929年7月~1931年9月:浜口雄幸と金解禁(130916更新)

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 満州事変以降、日本がその「運命の下り坂」を転げ落ちていくのですが、その出発点は意外にも人気のあった民政党・濱口首相でした。昭和5年(1930年)、緊縮政策を掲げ総選挙を勝ち抜いた濱口首相は、金解禁(金本位制)を打ち出し、円の信用回復を優先させます。その結果は、危惧されていた通り景気をさらに悪化させるだけでした。しかもこれらに軍縮が加わり、すべては内向きの縮小均衡でした。これに待ったをかける意見が相次ぎます。その象徴が、松岡洋右の「満蒙は日本の生命線」という発言でした。そもそも満州(中国・東北地方)とは、日露戦争で莫大な代償を払って手に入れた植民地です。しかしあれから25年もの歳月が流れ、政府の関心も薄れていました。なぜなら、実際に日本が支配する満蒙とは、わずかな土地と細く伸びる鉄道線にすぎなかったからです。もし将来、蒋介石が中国を統一したなら、巨大な市場に日本がアクセスできる。そんな意図が当時からあったとされます。それなのに、わずかばかりの満洲権益にしがみつき、蒋介石英米と対立するのは大損です。この新しい考え方が広がっていることに、軍部や一部の政治家が危機感を抱いていました。松岡もその一人です。ただし、のちに関東軍が暴走し、蒋介石を怒らせ、国際世界から孤立するという最悪の状況を招いたことは、松岡の意図したことではありませんでした。権益防衛と協調外交は矛盾しないと考えていたからです。

 

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 その後、事態はめまぐるしく変わっていきます。満州事変の頃、日本の政権は犬養毅が率いる政友会に変わっていました。積極財政策を掲げ、濱口元首相の政策を大きく転換させます。しかし景気回復には時間がかかるものです。それを待てなかった軍人の一部がついに暴発し、犬養首相を暗殺してしまいました。これが「五・一五事件」です。またその前に起こった満州事変の収拾に、政治家たちが選んだ方法は「満州国」建設でした。これは、当時やり得る精一杯の国際協調を願った試みでした。しかし、諸外国からは当然相手にされず、軍部にも失望される中途半端な選てでした。その結果「五・一五」のクーデターが起こり、さらに四年後にはより大規模な「二・二六」事件へとつながります。この間にも二度の総選挙はありましたが、政界はますます混迷を深めます。なぜなら中国では日中戦争が暴発(1937年)し、世論は次第にそれに引きずられていったからです。すなわち、局地戦の勝利、沸き立つ民衆、そこに便乗しようとする迎合政治家という最悪のサイクルが回りだしたのです。

 

 

太平洋戦争サイト リンク

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歴史は必然とか運命などと語られることが多いですが、おそらく偶然の集まりでしょう。日中戦争の泥沼にはまっていった日本は、突如「東亜新秩序」という大義を掲げます。この流れを打ち出したのは、国民迎合の人気者・近衛首相です。強い政治的基盤を持たなかった近衛が立脚するのは世論です。「国民政府(蒋介石)を相手とせず」と言ったかと思えば、次には「東亜新秩序」を打ち出し、中身のないキーワードで戦争を継続させました。また当時すでにドイツと防共協定を結んでいた日本は、ドイツ・ヒトラーの電撃的な動きに刺激を受けます。1939年、ドイツはポーランドに侵攻。翌年、日本はそのドイツと軍事同盟を結びます。「快進撃するドイツの情勢」を鵜呑みにし、「何となくいけるかも」という勢いで、日本が世界大戦に乗り出していったことがうかがえます。しかし日本の誤算は他にありました。実はこの同盟が何ら意味をなさなかったことです。ドイツはアジアに興味をもっておらず、日本がアジアで暴れて、イギリスやアメリカを困らせればいいと考えているぐらいでした。それなのにとドイツと結んだ日本は、アメリカから完全に敵視され、戻るに戻れない太平洋戦争へと突入してしまいます。

 

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いよいよ「昭和の暗い時代」の最終局面ですが、冒頭書の著者は、「ABCD包囲陣はなかった」と指摘しています。この米・英・中・蘭の四カ国は、まとまりようがなかったようです。むしろ日本の軍部が南方進出にあたっての口実として使った言葉しでた。確かにアメリカからの石油禁輸は痛手で、南方進撃を考えたことになっていますが、それよりも、援蒋ルート(中国・蒋介石を支援するルート)を遮断し、日中戦争を一日も早く終わらせたかったというのが陸軍の本音だったようです。日中ともに戦争の早期集結を願っていたからです。しかし、相互の不信感がズルズルとそれを許しません。その間、アメリカの参戦でヨーロッパの情勢が急展開し、また太平洋でも、アメリカは決してあきらめることなく、日本軍への反撃に乗り出します。日本の陸海軍はともく「偶然の誤算」を重ねた結果、「必然的な大惨敗」に陥ってしまったことがうかがえます。