「日本的組織」の、失敗の構図を知っておく

 

私が怒りを覚えるテーマです。日中戦争、太平洋戦争と、無謀な戦争を仕掛け、一億総力戦を唱えた愚かな政府が、日本国民に未曾有の犠牲と屈辱をもたらしました。近年、歴史研究が進み、当時の世論もまた戦争犯罪に加担したなどと言われたり、経済封鎖を仕掛けた米国こそ最大の戦犯であるとも言われたりします。いずれにしても、歴史の新たな視点を見出したことは評価しますが、先の大戦に対する、私の見方は変わりません。当時の政府の無能に対して、激しい憤りを覚えるのです。

 

 

ノモンハンから真珠湾まで(ヒトラーに引きずり回された日本)

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日本軍部の問題を象徴する事件が、1938年7月、ソ連満州国との国境付近で起こりました。ノモンハン事件です。動員兵力は日本軍が9000人に対して、ソ連軍は30000人。その後日本は、兵力を追加投入しますが、最終的に日本軍は大敗しています(ここには反論もあります)。少なくとも、この戦闘で死傷者は18000人、死傷率は76%という悲惨な戦いを経験しました。現場で兵士たちが勇ましく戦ったのはいいとして、明らかに人命を顧みず、戦略欠如の無意味な戦いを長引かせて(1939年5月11日~9月15日)しまいました。机上で計画を立て、いざ戦闘が始まると、優勢だったのは最初だけ。相手は迅速に対抗策を繰り出すのに対し、日本側は戦法を変えようとしませんでした。そして物量と軍人精神にしがみついて勝とうとしたのですが、兵站と環境対策が不十分なままの長期戦となり、日本側の死者はどんどん増えていきました。何やらどこかで聞いたことがある状況ですが、同じことを「南方」で大規模に繰り返してしまい、後の太平洋戦争に惨敗してしまうことになります。

 

他方、海軍の戦いを見てみましょう。「25対8」、この数字の意味が分かった人はかなりの歴史通でしょう。当時、ガダルカナル島の攻防戦に敗れた日本は、空母の保有数で日米に圧倒的に開きがあることを前提に、南方に連なる島嶼に飛行基地を造り、それをネットワーク化して米空母を迎え撃とうとしました。しかし、空母は艦載機を150機前後を有するのに対し、日本側の航空隊は複数の島に分散され、かつ伸び切った兵站を維持するだけでも困難な状態に陥ります。米軍は日本軍の補給路を叩きながら、一部の島を無視して北上を始めました。25の島に対して、米軍が上陸占領したのはたったの8島。米軍には効率という概念が染み付いており、戦略にしっかりと反映されていました。

 

「真珠湾70年・海軍航空隊と太平洋戦争」|特集|NHK 戦争証言アーカイブス

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昭和19年2月17日、500機を越える米艦載機の大空襲を受け、数十隻に上る輸送船やタンカーが撃沈され、民間人を含む2000人以上が犠牲となった。また、補充される予定だった"ゼロ戦"を始め300機近い航空機が破壊された。トラック諸島は、根拠地としての機能を失った上に、もう一つの前進根拠地である「ラバウル」も、トラック諸島という中継基地を失ったことで孤立することになった。 

 

太平洋戦争の戦局が、日本優位から米国逆転に転じたのは、情報戦で圧倒的な差が付き始めたかです。米軍は日本海軍の暗号情報を解読し、兵力の適正運用を実施していました。ゼロ戦対策の戦闘機も開発・量産が進み、いよいよ米軍が日本軍を追い詰めていくことになります。しかし日本海軍は、情報解読どころか、みずからの真実まで捻じ曲げて報告する有り様でした。大本営は、戦場最前線の痛々しい後退状況を、把握することもできていなかったようでした。また誤報を訂正できない自己保身的な体質も同じです。国よりも組織、組織よりも己の立場、そんな優先順位の本末転倒状態が、どんどん深刻になっていきました。

 

「戦前の日本が北朝鮮と同じ」だと言われると、ムキになって反論する方々がいらっしゃいます。お気持ちは分かります。「憎い北朝鮮」と「懸命に戦った私たちの先輩方」を一緒にするなど以ての外です。しかし、多くの国民を犠牲にしながら延命を図る北朝鮮首脳と、多くの国民に殉死を強いながら自らは(結果的に)生き延びた軍首脳との違いを私は見出すことができません。自決した阿南陸相を含め、立派な方も少なくありませんが、最期の最期まで徹底抗戦を貫こうと現場に思わせてしまった政府の「情報統制・隠蔽体質」には、憤りを隠せません。真実を知らされなかった国民の一部は、鬼畜米英を本当に信じたでしょう。そして彼らの無差別爆撃が日本殲滅を企図したものだと思わざるを得なかったかもしれません。

 

一億とは国民全体、総動員すべき人々を指した:日経ビジネスオンライン

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終戦前後の日本の人口はわずか7000万人台にすぎません。当時の「一億」には、日本の支配下にあった地域(朝鮮半島・台湾・樺太など)の人口も含んでました。いわゆる外地の人口(主に朝鮮人・台湾人)を含む大日本帝国の総人口は1935年以降、1億人を突破していました。

 

戦況が悪化して終戦が近づく時期になると、戦時スローガンのフレーズに、やや末期的なニュアンスが漂うようになります。その代表例が「一億玉砕」でした。「(1944年)7月7日、サイパン島守備隊が全滅して、大本営は本土決戦を叫び、8月4日、一億国民総武装を決定した。そして国民の戦意を昂揚させるために『一億玉砕』を唱えた」のです。玉砕とは唐の時代の史書に由来する言葉で「玉のように美しく砕け散ること」を意味します。これは「名誉や忠義を重んじて潔く死ぬこと」を婉曲的に表現する言葉でもありました。

 

本書の主旨が、太平洋戦争の失敗を通して、日本人の悪しき体質を学ぶということなら、私は必ずしも賛同できません。日本人だからと決めつけるものではないからです。しかし、日本的組織のトップは「無能者」が多く、意思決定を先送りしやすいのは、いくらか同意できます。ここでいう「無能」とは、状況の変化に適応していく能力のことを指します。組織の調整役として出世してきた人間は、組織の大勢に従うしかない、これが日本的組織の最大の特徴です。それにしても「三人寄れば文殊の知恵」とも言われるのに、なぜ、日本の組織には良い知恵が出ないのでしょうか。実際には、良い知恵をたくさん有しています。トヨタが良い事例です。現場の知恵を育て、どんどん反映させていく仕組みを有しています。しかし、組織の中で強硬派が我を通してしまうと、他の者はただそれについていくだけ。その象徴が、精神論だけで無謀な戦いを仕掛けた「インパール作戦」です。兵隊を疲弊させる過酷な行程、火力は敵軍のわずか三分の一、補給なきままの戦闘は撤退を余儀なくされます。有名な白骨街道では日本兵の死体が延々と並び、退却兵にとっては生きた心地がしなかったでしょう。この作戦を強引に遂行した司令官は撤退の最中に更迭されますが、無事日本に生還し、終戦後も余命を全うしたそうです。同氏だけではありません。部下の命をムダに失わせながら、戦後まで生き延びた士官クラスがどれほどいたことでしょう。これが「日本的組織」の成れの果てなのです。

 

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日本的組織がすべて悪いわけではありませんが、一度悪循環にはまるとどうなっていくのか、知っておいた方がいいでしょう。これは、今日の企業を率いる方々にとっても、他人事ではないと思います。